2014/11/08

「私たちは今もトニー・ウィルソンの子供たちなんです」ドゥルッティ・コラム Chronicle XL

前回のポーリン・マーレイのアルバムに引き続き、「FACT番号の無いファクトリー作品」の話です。

ヴィニ・ライリーが脳梗塞で倒れ、正式リリースが遅れていたドゥルッティ・コラム(The Drutti Column)新作「Chronicle(年代記)」が今年7月にやっと正式リリースされました。

ドラマーのブルース・ミッチェル(Bruce Mitchell)によると、この作品はヴィニが今まで出会ってきた友人たちの肖像を音楽で描いたもので、いわばエドワード・エルガー「エニグマ変奏曲」のドゥルッティ・コラム版とも言えるものだそうです。

同じ「Chronicle」と題されたアルバムとして、2011年マンチェスターでの特別ライヴのチケット購入者限定で配布されたものがあるのですが、今回リリースされたのはこれを再構成し新たな作品を加えた2枚組「Chronicle XL」です。一枚目が2011年の録音を再構成したChronicle One、二枚目はヴィニの60歳を記念して追加された内容のChronicle Twoとなっています。

CDは化粧箱入りのパッケージになっていて、ヴィニが撮影した友人たちのポートレート写真が掲載したブックレットが同梱されています。さらにヴィニが暮らしていた町の地図のポストカード、ピンバッジのほか、一枚のサンドペーパーが入っていてその裏には2011年版Chronicleのダウンロード・コードが記載されています。

前述のブックレットでブルース・ミッチェルがこのアルバムの成り立ちとヴィニの状態について詳しく書いていますので、それをご紹介します。

一緒に仕事をするのが難儀な人間といえば、まず第一に名前が挙がるのがヴィニ・ライリーでしょう。二番目は私かもしれませんが...

このアルバムの成り立ちについてお話ししましょう。曲の多くは2011年、ブリッジウォーター・ホールで開催したプレミア・ショーでのお披露目に向けて作られたものです。

このアルバムの始まりは、友人たちの肖像を音楽で描いた作品群をヴィニが撮影したポートレイト写真と一緒にアルバム化するという企画で「バイオグラフィーズ」と呼んでいました。私はこの思い付きとヴィニが撮った写真を大いに気に入ってました。おそらく私から言い出したアイディアだったと思います。

エルガーやバッハ、ヴィヴァルディといった作曲家たちは友人たちを音楽で描いたロマンチックな作品を残しています。ヴィニ・ライリーなら同じことができるはずだ。私はそう考えたのです。また音楽と写真を一緒にパッケージングしてちょっとした「アート作品」を世に出す良い機会だとも考えました。そうです。結局のところ、私たちは今もトニー・ウィルソンの子供たちなんです。

ヴィニはうなずいてこのアイディアに同意してくれましたが、さてどうなることか。一旦レコーディングの現場に入ってしまえば自分のやりたいようにやる、それが彼です。またスタジオ入りするためなら、どんなリップ・サービスも厭わずやってのける奴です。

私たちの長年に渡るプロデューサーを続けてるイカレポンチ、インチ・スタジオのキアー・スチュワート(Keir Stewarts)が全体の指揮を努め、ジョン・メトカルフェ(John Metcalfe)、テイム・ケレット(Tim Kellett)のほかヴィニの恋人ポピー・モーガン(Poppy Morgan)がピアノ、ドラムと洗濯と士気の担当が私という布陣でした。

集中、そして続く強力な音楽、ヘッドフォンを通じて鳴り続けるユニークなギターの音に合わせ、ドラムキットでガタガタ音を鳴らす、私はこのような場にまた参加できたことを嬉しく思いました。相棒の巨匠くんがゲームの掛け金を引き上げたら、私もそれに食らい付きました。

ところが突然、ポピー・モーガンが演奏を止めてしまいました。起伏の激しいアーティストの気性にはもう耐えられない、別れてアジア旅行に行くと言い出したのです。この出来事により、ヴィンセント・ジェラルド・ライリーは宇宙にさまよい出してしまいました。絶望の淵に滑り込み、「バイオグラフィー」のプロジェクトはエドガー・アラン・ポー風の陰鬱で暗く荒れ狂った失恋物語の様相を呈し始めました。私の勘違いだったと思いたいのですが、そのサウンドはまるで「Pain is Bright(訳注: アルバム LC収録Never Knownの歌詞)」でした。

2011年4月30日、私たちはプレミアショーをブリッジウォーター・ホールで開催、背景スクリーンにヴィニが撮影した写真を投影しながらバイオグラフィーズの曲を演奏しました。ある意味、私たちが悪戦苦闘するさまを披露したようなもので、観客にとっても同様だったと思います。どうにかこうにかショーをやり遂げたのですが、気付いてみると最後の写真が手違いにより終演後もスクリーンに映されたままになっていました。たくさんの観客を見下ろすように映し出されていたのはトニー・ウィルソンの写真でした。彼ならきっと「これこそ『イヴェント』だな」と言ったことでしょう。

その後もポピーは戻って来ませんでしたが、ヴィニは自分のベッドルームに篭り、創作に没入するようになりました。床にひざまずいたり、しゃがんだりしながら、借り物のポータブル・スタジオ機材を使って作曲し、サンプリングし、過去の音源を再加工し、ギターサウンドを入れ、ささやくようなヴォーカルをトラックに追加していきました。今から40年近く前、両親の住む家で作品を作り始めたときとまったく同じ方法です。彼はベッドルームの床に戻ってきたのです。

そのさらに数ヶ月後、ヴィニは玄関で倒れ救急車を呼びました。脳梗塞の発作が起きたのです。このため私たちはアルバム「バイオグラフィーズ」の制作を一旦中断し、ドゥルッティ・コラムの過去作品のリイシューと特別盤のリリース作業に専念することにしました。協力してくれた友人はKookyレーベルのフィル・クリーヴァー(Phil Cleaver)とファクトリー・ベネルクスのジェイムス・ナイスです。私たちは彼らの連帯と紳士的行為に大きな恩を感じています。

入院、治療中も遅々としてではありますが、ヴィニは音楽を続けていました。あるときは病院のベッドに赤いギブソンSGを引き摺ってきて「技能」と健康を取り戻そうとしていました。ギブソンSGならネックが細くて彼の衰えた左手でも握りやすいという理由でこのギターを選んだのです。その後さらにインチ・スタジオへ短時間ながらも通って絶望からの回復に努めました。ビル・ランス(Bill Rance)とローズ・バーリー(Rose Birley)が歌い、キアー・スチュワアートがとりまとめ役を買って出てくれ、演奏のほか彼のあらゆる社交術を駆使して精神の安定に努めてくれました。そしてヴィニ、私は彼をこの戦いのマン・オブ・ザ・マッチに選出します。

いかなることがあろうと「人の胸に希望は永遠に湧き出る」ということです。私と一緒にあなたも肝に命じておいてください。そして私たちはついにこの美しい作品を完成させました。私はいつも車で町中を忙しく走りまわりながら、このアルバムの曲を流しています。とても快適です。もうヴィニからの奇矯な電話に煩わされることもありません。

「アルバムのタイトルはChronicleでいいかな?」彼が尋ねました。
「もしろんさ。Chronicleのパート1とパート2だよ」私はそう応えました。

さて紳士、淑女のみなさん、作品の評価については議会に委ねることをお許しいただければと...

2014年 ブルース・ミッチェル

一時はブルース・ミッチェルでさえ絶望的と言っていたヴィニ・ライリーの体の状態ですが、少しずつギターが弾けるようになってきています。今年5月にはブルースと一緒にChorlton Arts Festivalのステージで演奏もしました。つい先日はSome Kind of Illnessのメンバーと一緒にカフェでギターを弾くヴィニの姿がFacebookにアップされていました

このほか 昨年のインタビューで「ミケーラ・ターナー・ノーラン(Michaela Turner Nolan)という素晴らしいナチュラル・ヴォイスの女性と出会ったんだ。すぐにでも次のアルバムを作りたい」なんて言ってるんですが、女性には注意した方がいいと思うなあ。前のポピー・モーガンだってヴィニの娘くらいの年齢でしょう。Myspaceにはこんな写真載せ ちゃってたし...

まあとにかく、ヴィニが元気になってきて良かったです。案外イメージとは裏腹の助平さんなのかもしれませんが、それが生きる活力になります。

(2015/01/18追記)
アルバムChronicle XLはiTunesやAmazon MP3でもリリースされ、入手しやすくなりました。

2014/11/03

「ファクトリー」番外の名作 Pauline Murray and the Invisible Girls

Pauline Murray and the Invisible Girls

この10月、1980年にリリースされたポーリン・マーレイ・アンド・ザ・インヴィジブル・ガールズ(Pauline Murray and the Invisible Girls)唯一のアルバムが突如、リマスターで再リリースされました。

かのマーティン・ハネット(Martin Hannett)がプロデュースを手がけた知る人ぞ知る名作です。ポーリン・マーレイと彼女のパートナーでありベーシストのロバート・ブレミア(Robert Blamire)を中心に、スティーヴ・ホプキンス(Steve Hopkins)、ヴィニ・ライリー(Vini Reilly)というファクトリー勢とバズコックス(Buzzcocks)のジョン・マー(John Maher)という一部の人々にとっては涙が出るほどの豪華メンバーで作られた作品です。録音はストロベリー・スタジオでジャケットのデザインはピーター・サヴィル(Peter Saville)が担当、レコードは当時RSOというレーベルからリリースされたのですが、事実上の「ファクトリー」作品と言って差し支えありません。

あ、トニー・ウィルソン?トニーもちゃんとレコーディング中、スタジオに顔出してますよ

「ポーリン・マーレイなんて名前、知らない」という方も多いでしょうから、まず簡単にご紹介しておきます。オリジナルのパンク少女です。1976年、イングランド北部、人口数万の小さな都市ダラムに暮していた当時18歳のポーリンは、まだレコード・デビュー前だったセックス・ピストルズのギグを観に行って大きな衝撃を受けます。これこそ自分が求めていたものだ、こうしちゃいられない、自分もステージに立たなくちゃ、そう考えた彼女は近所の楽器を弾けそうな男の子たちをかき集めてバンドを結成します。そのバンドがペネトレーション(Penetration)です。

きわめて早い時期に登場したパンク・バンドということもあり、ペネトレーションは翌年1977年にはもうヴァージンとの契約を果し、ファースト・シングルをリリースします。さらに翌年にはファースト・アルバム「Moving Targets」を発表、UK チャートの上位に食い込みます。

このペネトレーション、パンク・バンドとして売り出されたんですが、実はいわゆるパンクとは一線を画す異なるユニークな音楽性を持っていました。ポーリンのノンビブラート、直球ど真ん中勝負の声、パンクなのになぜかポップで哀愁を帯びたメロディー、妙に整った曲構成とアレンジ。作曲の中心になっていたポーリンやロバートの才能でしょうね。おまけにギターのサウンドがメタルなんですよ。当時パンク・バンドでギターが「キュィイーーン」というのは暗黙の禁じ手となっていたのですが、ペネトレーションのギターは平気でキュィイーーンなんですよ。たぶん近所でメンバー集めたときに「あんたギター弾ける?じゃギター担当で決まりね」って感じでやったので、そうゆうタイプのギターが混ざってしまったのでしょう。結果的にそれがユニークなサウンド作りに大きく貢献しました。

一時は北米ツアーをするくらいまでになったのですが、2枚目のアルバムは思ったように売れず、レコード会社も「パンクはもうおしまい、次!」ということになり、1979年にはもう解散してしまいました。

ペネトレーション解散後、ソロとしての再起をかけたポーリンがマーティン・ハネットに自らプロディースを依頼をして作成したアルバムがこの「Pauline Murray and the Invisible Girls」です。

アルバム再発までの経緯と当時の状況について話をしている最近のインタビューがありましたので、ご紹介します。

ダークなポップ・アルバム。曲は意図してポップにつくろうとしたわけではなくて、自然にそうなったの。わたしの声はすごくキャッチーに録られてるけど、その後に発表された他の音楽のようにクリーンなポップじゃなく、ちょっとトゲがある。

あれはマーティン・ハネットがプロデューサーとしてその後80年代に出したアルバムの青写真的なもの。転換点だったのよ。ちょうどレコーディングをしている最中にイアン・カーティスが自殺をして、異様なムードが取りまいていた。

アルバムはRSOレーベルからリリースされたんだけど直後に突然潰れてしまって、それっきりわたしはレコード会社との契約も無くなってしまった。テープはずっとわたしたち(ロバート・ブレミアとポーリン・マーレイ)が所有していて、何とか再び世に出したいと思ってた。だってあればミッシング・リンクで「ファクトリー」ともつながっているものなんだから。権利も自分たちで持ってたから何度もリリースしようとしたんだけど、力が及ばなかったの。

ところがうれしいことにこの3月、クレスプキュールのジェイムス・ナイスから再リリースについて打診があったの。

あの作品を作ったのは自分なんだけど、当時のわたしはこの上なく落ち込んでいたの。ものすごくつらい時期だった。きっとそのときの気持ちがあのレコーディングに詰まっているんだと思う。ペネトレーションでの経験しかなかったから、マーティンやセッション・ミュージシャンたちとやることに自信がなかったのよ。そんなの初めてだったから。

マーティンと一緒にレコーディングを始めると、なんだか音楽が自分の手を離れていくような気がした。曲のデモを演奏してその録音を聴き直したら、いつの間にかアレンジができ上がってるのよ。まだピアノやストリングス、セッション・ミュージシャンの誰とも一緒に演奏していないのに。

マーティンは他のプロデューサーとは全然違っていた。じゃヴォーカル、もう一度やってみよう、次はきっともっと良くなるよ、なんて言うのが普通のプロデューサー。だけど彼は何ひとつ指示しないの。彼はただバックトラックを流して、わたしはそれに合わせて歌う。またトラックを流してわたしが歌う。それからまた歌う、また歌う、この繰り返し。これが延々10回くらい続くのよ。しまいにはもううんざり。

最近ウェイン・ハッスィー(Wayne Hussey)と話す機会があったのだけど、彼も同じことを言ってた。ウェインはギター・パートを録音してたんだけど、何度演奏してもコントロール・ルームから何ひとつ指示がなくて、10回を越えたところで辛抱たまらずコントロール・ルームに入って行ったら、そこにはマーティン以外誰もいなくて、しかもデスクの下で寝てたんだって。テープだけリピート設定されてたって。万事がこの調子だったのよ。

箱にしまってあったマスターテープは一部音が消えていたりで、期待していた状態じゃなかったの。だけど箱の中には未開封の日本版のレコードが残っていて、それを基準として使うことができたの。技術が発展したおかげ。オリジナルのテープは劣化してひどい音になっていたから、全部マスタリングし直す必要があったのだけど、新品状態のレコードが残っていたのでそれを基準にしてオリジナルのサウンドを再現することができた。ジェイムス・ナイスがすごくいい仕事をしてくれたおかげで素晴しいサウンドに出来上がったのよ。

NTERVIEW: PAULINE MURRAY. INVISIBLE GIRL.

ここで本人が言ってる通り、アルバムはリリースされたもののレコード会社がその直後に倒産、プロモーションが充分に行われなかったせいもあって、音楽誌や一部の人たちにとても高く評価されたにもかかわらず、ヒットには至りませんでした。

その後34年、現在に至るまで彼女はどうしていたのでしょう。これも同じインタビューで語っています。

このファースト・ソロ・アルバムをリリースした後、10インチ・シングルの「Searching for Heaven」も出したんだけど、その後でRSOが潰れてしまいレコード会社との契約がなくなってしまったの。ニューカッスルの家を出てロンドンに3ヶ月住んで、その後ロバートと一緒にリバプールのトックテスへ引っ越したんだけど、その1週間後に暴動が起きた。その頃色々なゴタゴタも抱えていて、家に帰ることもできなかった。音楽の世界から逃げ出したわたしはもう二度とカムバックできないんじゃないかと感じてた。わたしは歌がうまいわけじゃないし、もうおしまい、もうこれ以上続けたくない。次のレコード会社との契約も望めなかったから、音楽の世界に背を向けようとした。

それでもどうにかニューカッスルへ帰って、Chrysalis音楽出版の人に会ってみると、その人はInvisible Girlsのアルバムを作成したとき作曲者契約を担当した人だったの。おかげで何曲か作って、Big Starのアルバムの曲Holocaustのセッションにも参加できた。これで自信がついてまた次のステップに進むことができた。ただ作曲家契約はしたものの文無し。どのプロジェクトもお金にならなかった。自前のレーベルPolestarを立ち上げ、バンドを組んでStorm Cloudsとしてアルバムをリリース、国内で何度かライヴもしてみた。80年代の中頃のこと。誰も興味を持ってくれなかった。

ロバートの家は印刷屋をやっていたから、彼はしばらく帰ってその仕事をすることになった。わたしは1年ほどレストランで皿洗いの仕事をした。それが当時のわたしにはできる精一杯のことだったから。だけどそのおかげで現実の世界に戻ることができた。

リバプールに住んでいた頃から、わたしはいつかリハーサル・スタジオを開きたいという夢を持っていんだけど、偶然にもひとりの地主さんから「この物件をきれいにしてくれるなら家賃は数ヶ月分無料にするよ」って話があったの。わたしは思い切って契約を結んだ。何もないところから始めたんだけど、次第に仕事としての体を成してきて、それが今のPolestarスタジオになったの。

数年前、カウンシルから建物をひとつ買い取って、今の場所に移転したの。メンテナンスされずに放置されてた建物だったけど、自分達で全部直してね。今ではリハーサル・スタジオが4つ、レコーデイング・スタジオも1つあるのよ。マキシモ・パーク(Maxïmo Park)やジョン・アシュトン(John Ashton)もここを使ってるのよ。長いことかかったここまできたの。子供は二人いてもう大人になってる。昔とはぜんぜん違う生活。

2001年にはペネトレーションを再結成して何度か素晴しいショーもできたし、すてきな人たちとも出会えた。数年前、マーティン・スティーヴンソン(Martin Stephenson)の勧めでヴィヴ・アルバーティン(Viv Albertine)、ジーナ・バーチ(Gina Birch)、ヘレン・マコッカリボック(Helen McCookerybook)と一緒に何曲か演ることになって、それがきっかけでアコースティック・ギターを弾くようになったの。まだほんとに数曲しか作ってないんだけど、今までの曲とはまったく違ったものになってる。

1年くらい前からペネトレーションを呼びたいというオーストラリアのプロモーターから話を受けていたのよ。だけどオーストラリアでペネトレーションはほぼ無名のバンドだから、ファン開拓のためにシドニーとメルボルンでアコースティック・ライヴをやって、色々プロモーション活動をすることにしたの。ソロでのアコースティック・ツアーなんて初めてで新たな挑戦だけど、これまでやってきたライヴ同様、すごくやりがいを感じる。ペネトレーションとは正反対のくつろいだ感じのライヴになるはず。

ちょうどこれを書いてる今、ポーリンは初のオーストラリア・ツアーの真っ最中です。

最後に、このアルバムから当時シングル・カットされた「Mr. X」という曲をご紹介します。2014年の今も、充分に聴く価値のある曲です。歌の背後に漂っている特徴的なギターの音はもちろんヴィニ・ライリーによるものです。

言われた通りに笑ってください
次に笑い者になるのはあなたなんです
スポットライトに照らされてるあなたを
みんなが注目してますよ

明日、あなたはお金持ちになってるかも
明日、あなたはお金持ちになってるかも

この白線の上に立ってください
ただのゲームですよ
問題に答えるんです
ではお名前をどうぞ

明日、あなたはお金持ちになってるかも
明日、あなたはお金持ちになってるかも

勝つために屈辱に耐えなくちゃならない
友達がみんな期待してる
だけどどうしたらいいんだろう
勝つために屈辱に耐えなくちゃならない
友達がみんな期待してる

制限時間は20秒
問題は20問です
迷ってるひまはありませんよ
この目隠しを付けてください
では照明を消します

明日、あなたはお金持ちになってるかも
明日、あなたはお金持ちになってるかも

カウントダウン開始です
選択肢は10個、どれを選びますか
生涯もう二度とないビッグチャンスです
でもここであなたの集中力は切れ
言葉が出なくなる

明日、あなたはお金持ちになってるかも
明日、あなたはお金持ちになってるかも