2014/11/03

「ファクトリー」番外の名作 Pauline Murray and the Invisible Girls

Pauline Murray and the Invisible Girls

この10月、1980年にリリースされたポーリン・マーレイ・アンド・ザ・インヴィジブル・ガールズ(Pauline Murray and the Invisible Girls)唯一のアルバムが突如、リマスターで再リリースされました。

かのマーティン・ハネット(Martin Hannett)がプロデュースを手がけた知る人ぞ知る名作です。ポーリン・マーレイと彼女のパートナーでありベーシストのロバート・ブレミア(Robert Blamire)を中心に、スティーヴ・ホプキンス(Steve Hopkins)、ヴィニ・ライリー(Vini Reilly)というファクトリー勢とバズコックス(Buzzcocks)のジョン・マー(John Maher)という一部の人々にとっては涙が出るほどの豪華メンバーで作られた作品です。録音はストロベリー・スタジオでジャケットのデザインはピーター・サヴィル(Peter Saville)が担当、レコードは当時RSOというレーベルからリリースされたのですが、事実上の「ファクトリー」作品と言って差し支えありません。

あ、トニー・ウィルソン?トニーもちゃんとレコーディング中、スタジオに顔出してますよ

「ポーリン・マーレイなんて名前、知らない」という方も多いでしょうから、まず簡単にご紹介しておきます。オリジナルのパンク少女です。1976年、イングランド北部、人口数万の小さな都市ダラムに暮していた当時18歳のポーリンは、まだレコード・デビュー前だったセックス・ピストルズのギグを観に行って大きな衝撃を受けます。これこそ自分が求めていたものだ、こうしちゃいられない、自分もステージに立たなくちゃ、そう考えた彼女は近所の楽器を弾けそうな男の子たちをかき集めてバンドを結成します。そのバンドがペネトレーション(Penetration)です。

きわめて早い時期に登場したパンク・バンドということもあり、ペネトレーションは翌年1977年にはもうヴァージンとの契約を果し、ファースト・シングルをリリースします。さらに翌年にはファースト・アルバム「Moving Targets」を発表、UK チャートの上位に食い込みます。

このペネトレーション、パンク・バンドとして売り出されたんですが、実はいわゆるパンクとは一線を画す異なるユニークな音楽性を持っていました。ポーリンのノンビブラート、直球ど真ん中勝負の声、パンクなのになぜかポップで哀愁を帯びたメロディー、妙に整った曲構成とアレンジ。作曲の中心になっていたポーリンやロバートの才能でしょうね。おまけにギターのサウンドがメタルなんですよ。当時パンク・バンドでギターが「キュィイーーン」というのは暗黙の禁じ手となっていたのですが、ペネトレーションのギターは平気でキュィイーーンなんですよ。たぶん近所でメンバー集めたときに「あんたギター弾ける?じゃギター担当で決まりね」って感じでやったので、そうゆうタイプのギターが混ざってしまったのでしょう。結果的にそれがユニークなサウンド作りに大きく貢献しました。

一時は北米ツアーをするくらいまでになったのですが、2枚目のアルバムは思ったように売れず、レコード会社も「パンクはもうおしまい、次!」ということになり、1979年にはもう解散してしまいました。

ペネトレーション解散後、ソロとしての再起をかけたポーリンがマーティン・ハネットに自らプロディースを依頼をして作成したアルバムがこの「Pauline Murray and the Invisible Girls」です。

アルバム再発までの経緯と当時の状況について話をしている最近のインタビューがありましたので、ご紹介します。

ダークなポップ・アルバム。曲は意図してポップにつくろうとしたわけではなくて、自然にそうなったの。わたしの声はすごくキャッチーに録られてるけど、その後に発表された他の音楽のようにクリーンなポップじゃなく、ちょっとトゲがある。

あれはマーティン・ハネットがプロデューサーとしてその後80年代に出したアルバムの青写真的なもの。転換点だったのよ。ちょうどレコーディングをしている最中にイアン・カーティスが自殺をして、異様なムードが取りまいていた。

アルバムはRSOレーベルからリリースされたんだけど直後に突然潰れてしまって、それっきりわたしはレコード会社との契約も無くなってしまった。テープはずっとわたしたち(ロバート・ブレミアとポーリン・マーレイ)が所有していて、何とか再び世に出したいと思ってた。だってあればミッシング・リンクで「ファクトリー」ともつながっているものなんだから。権利も自分たちで持ってたから何度もリリースしようとしたんだけど、力が及ばなかったの。

ところがうれしいことにこの3月、クレスプキュールのジェイムス・ナイスから再リリースについて打診があったの。

あの作品を作ったのは自分なんだけど、当時のわたしはこの上なく落ち込んでいたの。ものすごくつらい時期だった。きっとそのときの気持ちがあのレコーディングに詰まっているんだと思う。ペネトレーションでの経験しかなかったから、マーティンやセッション・ミュージシャンたちとやることに自信がなかったのよ。そんなの初めてだったから。

マーティンと一緒にレコーディングを始めると、なんだか音楽が自分の手を離れていくような気がした。曲のデモを演奏してその録音を聴き直したら、いつの間にかアレンジができ上がってるのよ。まだピアノやストリングス、セッション・ミュージシャンの誰とも一緒に演奏していないのに。

マーティンは他のプロデューサーとは全然違っていた。じゃヴォーカル、もう一度やってみよう、次はきっともっと良くなるよ、なんて言うのが普通のプロデューサー。だけど彼は何ひとつ指示しないの。彼はただバックトラックを流して、わたしはそれに合わせて歌う。またトラックを流してわたしが歌う。それからまた歌う、また歌う、この繰り返し。これが延々10回くらい続くのよ。しまいにはもううんざり。

最近ウェイン・ハッスィー(Wayne Hussey)と話す機会があったのだけど、彼も同じことを言ってた。ウェインはギター・パートを録音してたんだけど、何度演奏してもコントロール・ルームから何ひとつ指示がなくて、10回を越えたところで辛抱たまらずコントロール・ルームに入って行ったら、そこにはマーティン以外誰もいなくて、しかもデスクの下で寝てたんだって。テープだけリピート設定されてたって。万事がこの調子だったのよ。

箱にしまってあったマスターテープは一部音が消えていたりで、期待していた状態じゃなかったの。だけど箱の中には未開封の日本版のレコードが残っていて、それを基準として使うことができたの。技術が発展したおかげ。オリジナルのテープは劣化してひどい音になっていたから、全部マスタリングし直す必要があったのだけど、新品状態のレコードが残っていたのでそれを基準にしてオリジナルのサウンドを再現することができた。ジェイムス・ナイスがすごくいい仕事をしてくれたおかげで素晴しいサウンドに出来上がったのよ。

NTERVIEW: PAULINE MURRAY. INVISIBLE GIRL.

ここで本人が言ってる通り、アルバムはリリースされたもののレコード会社がその直後に倒産、プロモーションが充分に行われなかったせいもあって、音楽誌や一部の人たちにとても高く評価されたにもかかわらず、ヒットには至りませんでした。

その後34年、現在に至るまで彼女はどうしていたのでしょう。これも同じインタビューで語っています。

このファースト・ソロ・アルバムをリリースした後、10インチ・シングルの「Searching for Heaven」も出したんだけど、その後でRSOが潰れてしまいレコード会社との契約がなくなってしまったの。ニューカッスルの家を出てロンドンに3ヶ月住んで、その後ロバートと一緒にリバプールのトックテスへ引っ越したんだけど、その1週間後に暴動が起きた。その頃色々なゴタゴタも抱えていて、家に帰ることもできなかった。音楽の世界から逃げ出したわたしはもう二度とカムバックできないんじゃないかと感じてた。わたしは歌がうまいわけじゃないし、もうおしまい、もうこれ以上続けたくない。次のレコード会社との契約も望めなかったから、音楽の世界に背を向けようとした。

それでもどうにかニューカッスルへ帰って、Chrysalis音楽出版の人に会ってみると、その人はInvisible Girlsのアルバムを作成したとき作曲者契約を担当した人だったの。おかげで何曲か作って、Big Starのアルバムの曲Holocaustのセッションにも参加できた。これで自信がついてまた次のステップに進むことができた。ただ作曲家契約はしたものの文無し。どのプロジェクトもお金にならなかった。自前のレーベルPolestarを立ち上げ、バンドを組んでStorm Cloudsとしてアルバムをリリース、国内で何度かライヴもしてみた。80年代の中頃のこと。誰も興味を持ってくれなかった。

ロバートの家は印刷屋をやっていたから、彼はしばらく帰ってその仕事をすることになった。わたしは1年ほどレストランで皿洗いの仕事をした。それが当時のわたしにはできる精一杯のことだったから。だけどそのおかげで現実の世界に戻ることができた。

リバプールに住んでいた頃から、わたしはいつかリハーサル・スタジオを開きたいという夢を持っていんだけど、偶然にもひとりの地主さんから「この物件をきれいにしてくれるなら家賃は数ヶ月分無料にするよ」って話があったの。わたしは思い切って契約を結んだ。何もないところから始めたんだけど、次第に仕事としての体を成してきて、それが今のPolestarスタジオになったの。

数年前、カウンシルから建物をひとつ買い取って、今の場所に移転したの。メンテナンスされずに放置されてた建物だったけど、自分達で全部直してね。今ではリハーサル・スタジオが4つ、レコーデイング・スタジオも1つあるのよ。マキシモ・パーク(Maxïmo Park)やジョン・アシュトン(John Ashton)もここを使ってるのよ。長いことかかったここまできたの。子供は二人いてもう大人になってる。昔とはぜんぜん違う生活。

2001年にはペネトレーションを再結成して何度か素晴しいショーもできたし、すてきな人たちとも出会えた。数年前、マーティン・スティーヴンソン(Martin Stephenson)の勧めでヴィヴ・アルバーティン(Viv Albertine)、ジーナ・バーチ(Gina Birch)、ヘレン・マコッカリボック(Helen McCookerybook)と一緒に何曲か演ることになって、それがきっかけでアコースティック・ギターを弾くようになったの。まだほんとに数曲しか作ってないんだけど、今までの曲とはまったく違ったものになってる。

1年くらい前からペネトレーションを呼びたいというオーストラリアのプロモーターから話を受けていたのよ。だけどオーストラリアでペネトレーションはほぼ無名のバンドだから、ファン開拓のためにシドニーとメルボルンでアコースティック・ライヴをやって、色々プロモーション活動をすることにしたの。ソロでのアコースティック・ツアーなんて初めてで新たな挑戦だけど、これまでやってきたライヴ同様、すごくやりがいを感じる。ペネトレーションとは正反対のくつろいだ感じのライヴになるはず。

ちょうどこれを書いてる今、ポーリンは初のオーストラリア・ツアーの真っ最中です。

最後に、このアルバムから当時シングル・カットされた「Mr. X」という曲をご紹介します。2014年の今も、充分に聴く価値のある曲です。歌の背後に漂っている特徴的なギターの音はもちろんヴィニ・ライリーによるものです。

言われた通りに笑ってください
次に笑い者になるのはあなたなんです
スポットライトに照らされてるあなたを
みんなが注目してますよ

明日、あなたはお金持ちになってるかも
明日、あなたはお金持ちになってるかも

この白線の上に立ってください
ただのゲームですよ
問題に答えるんです
ではお名前をどうぞ

明日、あなたはお金持ちになってるかも
明日、あなたはお金持ちになってるかも

勝つために屈辱に耐えなくちゃならない
友達がみんな期待してる
だけどどうしたらいいんだろう
勝つために屈辱に耐えなくちゃならない
友達がみんな期待してる

制限時間は20秒
問題は20問です
迷ってるひまはありませんよ
この目隠しを付けてください
では照明を消します

明日、あなたはお金持ちになってるかも
明日、あなたはお金持ちになってるかも

カウントダウン開始です
選択肢は10個、どれを選びますか
生涯もう二度とないビッグチャンスです
でもここであなたの集中力は切れ
言葉が出なくなる

明日、あなたはお金持ちになってるかも
明日、あなたはお金持ちになってるかも