本日、勤労感謝の日を記念して、ジョン・ライドン氏の「アリス・クーパー」("Alice Cooper" by John Lydon)全文を訳出し、ここに公開させていただきます。
http://www.johnlydon.com/jlbooks.html#coops |
原文は 1999年に発売されたアリス・クーパー(Alice Cooper)の CD ボックスセット「The Life & Crimes of Alice Cooper」に同梱のブックレット用に書き下ろされたものですが、アリス・クーパーの魅力だけでなく、ジョニーおじさんの音楽や人生に対する考え方が真摯に述べられたきわめて重要な資料となっています。
せっかくの休日にオラが丸一日かけて訳したものなので、「勤労に感謝しようにも仕事がねえんだよ!」という方も「そういえば、セックス・ピストルズが登場した1976年のイギリスも、ちょうど今の日本のように仕事のない若者が街に溢れていたんだよなあ」などと思いを馳せながらお楽しみください。さもなきゃくたばっちまえ。アリス・クーパーの曲の歌詞なら全部知っている。
実際、この俺にいわゆる「音楽キャリア」と呼べるようなものがあるとすれば、それはジュークボックスから流れる I'm Eighteen を口パクで演じたことから始まった。およそ音楽とはほど遠い行為がパンクの誕生ってわけだ。最初、マルコム・マクラーレンがバンドに入らないかと声をかけてきたときは、冗談を言っているとしか思えなかった。パブに呼び出されて他のメンバーたちに会った。閉店後の店で、奴らは俺に歌真似でも何でもいいから歌ってみろと言ってきた。真似くらいならできるが、まともに歌えるわけがない。ジュークボックスにある曲の中で唯一何とかできそうだったのが I'm Eighteen だった。曲に合わせてベリーダンサーみたいにクネクネもだえまくるのを見て、マルコムは「よし、こいつしかいない!」と思ったらしい。こうして俺は職にありつき、華麗なるキャリアを歩み出したというわけだ。
俺はセックス・ピストルズを「音楽芸人」とか「悪意に満ちた茶番劇」と呼んでいる。こと俺に関して言えば、明らかにアリス・クーパーの影響を受けていて、もちろんそのことをものすごく誇りに思う。アリスの影響がなければ、若くしてあんな特別なチャンスをモノにすることはできなかった。彼は昔の俺に進むべき方向を示してくれる道しるべだった。
Killer は間違いなくロック史上最高のアルバムだ。もちろんその前には超名作アルバム Love It To Death もある。この2枚は当時の俺みたいな悩める子羊にはヘビー過ぎる代物だった。俺はロック・ミュージックを作ろうと思ったことは一度だってない。なぜなら最高のロックはアリスの手によって作られ、レコードとして既に存在しているんだから。ピストルズでまったく違うアプローチを取ったのはそのためだ。自分がすばらしいと思ったからこそ、そのイミテーションを自分で作りたくはなかった。すばらしい人に影響を受けたのなら、絶対にその模倣をすべきじゃない。
たとえば Luney Tune は俺が長年愛聴している大好きな曲だ。地獄のようにぞっとする気味の悪い曲だ。だが今どきのゴス・ロックの連中はカスだ。アリスがやっていたことに比べたら単なるまがい物。未熟でバランス感覚の欠如した三流コピーだ。
ひとつの真にオリジナルな作品に対して、その安っぽいコピー品が10は出てくる。なさけないのは、人々が注意を払うのはいつもコピー品の方だってことだ。連中は何か新しいものが生み出される過程を、自分で見きわめようという気がないらしい。最悪だ。歴史的な観点を放棄してしまうと、すべてのものに意味がなくなってしまう。俺はあらゆる種類、あらゆるジャンルの音楽に興味を持ち、その中にオリジナルなものを探す。オリジナリティこそ最も重要だ。そしてアリス・クーパーほどオリジナルなものは空前絶後、ほかにない。
数年前、俺はアリス・クーパーのファンクラブに加入した。すると箱いっぱいのニワトリの羽が送られてきた。すばらしい!「おい、これ、アリスが殺したニワトリの羽じゃん」これ以上悪趣味で愉快なものがほかにあるか?
アリスがいれば、ドラキュラなんて用無しだ。ドラキュラはくそ真面目すぎる。一方アリスの I Love the Dead は最高のユーモアに溢れた曲だ。昔、シドのアコースティック・ギター、俺のバイオリンのコンビで地下鉄駅へ行ってよく演奏した。I Love the Dead をくり返し、くり返し、何時間も何時間も歌い続けるんだ。もちろんシドはギターを弾けないし、俺もバイオリンなんか弾けるわけない。でも最高に楽しかったよ。どうかお願いだから歌を止めてくれって、みんな金を出すんだ。
こうしたアリスの曲はどれも時代を越えた存在だ。聴く者を開放する。時代のファッションとは無縁。すべてを超越している。しかもその曲は常にシンプルで、短くて、辛辣で、快楽に満ちていて、もったいぶった言いまわしは一切ない。核心をストレートに突いている。アリス自身そのことを理解していて、常にそれをやってのける。いつも新しくて下品な切り口がある。どの作品も下品さの新境地を切り開いている。あんたも、もうちょっとパンツのゴムを緩めたほうがいい。
野郎ばかりのバンドの名前をアリス・クーパーにするというのは、お堅い人々に嫌悪感を抱かせるなかなか魅力的なアイデアだ。彼はそうやって世界を修復不能な混沌の渦に突き落とした。むさ苦しい男たちが皮のコルセットと奇抜な化粧を身に纏い、ティーンエイジャーの悩みを歌う。これほど感動的なものがほかにあるか?イメージに左右されるのではなく、イメージを逆手にとって遊ぶ。それこそユーモアというものだ。
アリスは素晴しい見世物ショーの座長でもある。完璧なアンチヒーローだ。卓越した舞台センスで演じ、人々を虜にする。誰ひとりがっかりさせたりしない。ドレスを着た服装倒錯のマッチョのイメージは、人の興味を引き、一石二鳥の役割を果たす。
アリスには主張があり、オリジナリティと傲慢さ、大胆さがある。そして恐れずに行動する勇敢さを備えている。20年経って、すっかり人畜無害になったゴス-服装倒錯ファッションで着飾るのとはまるで意味が違う。小手先でアリスの真似するのは簡単だが、明らかに間違いだ。そこには何ひとつ危険なものはない。真似っ子連中のやることといえば、おもしろくもない麻薬がらみの長口舌ををたれるだけだ。アリス・クーパーの曲には、麻薬に頼るようなメンタリティを後押しするものは一曲たりともない。
アリス・クーパーは自己憐憫とは無縁だ。これっぽちも関係ない。天罰が下るときはそれを受け入れる。アリス・クーパーほどパワフルに、ありありとしたイメージでキャラクターを演じられるものはいない。すべてが完璧で、すべてのキャラクターが弱さを持っている。にもかかわらず、自己憐憫はない。「俺は間違いを犯した。そして今、その報いを受ける」
アリス・クーパーには「老い」を思わせる要素もない。生きる喜びだけがある。過ち、欠点など、人生のすべての醜い面はユーモアをもって描き出される。
アリス・クーパーは縄につながれた狂犬をイメージさせる。ワイルドな狂気が、擦り切れてボロボロな縄によってかろうじて繋ぎ止められている様だ。アリスにふわさしいイメージだと思う。制約は逆にパワーをもたらす。社会は個性を持った人間に対し、馬鹿げたルールを押し付け、一方で彼らはその暗黒面を照らし出す。奇妙な話だが、我々には束縛が必要なんだ。四方を強固な壁に囲まれてこそ、カオスはその力を発揮する。
アリスの功績は表面的なレベルでだけ語られるべきものではない。多くの人がその間違いを犯している。もっと深いところに数多くのものがある。アリスの曲のいくつかは大ヒットしたが、多くの人は曲に身を委ねようとしない。だからアリスを見誤る。
アリス・クーパーをロックンロールのどこに位置付けるかって?はるか空の彼方に決まってるだろ。俺はどれだけアリスを尊敬しているか、それを秘密にしようとしたことはない。俺がアリス・クーパーのファンであることを、らしくないと思う奴もいるらしい。ああ、そうかい。
セックス・ピストルズはリアルで、アリス・クーパーはそうじゃないだって?冗談じゃない。俺は今もアリス・クーパーを聴き続けている。アリス・クーパーみたいな奴こそが、世界をマシな場所にしてくれるんだ。
アリス・クーパー... すごい奴だよ。