2012/12/30

チーン、ゴンって調子のいつもと変わらないブライアン・イーノの音楽だろ - LUX

Galleria di Diana
Galleria di Diana, a photo by Lorenzo X on Flickr.

普通の人は普段、自分の生活空間にある壁紙の材質や色をあまり意識しないで過ごしています。いつも行ってる職場や学校の部屋の壁紙、どんな色でどんな材質だったか憶えていますか?毎日飽きるほど見ているはずなのに、いざ思い出そうとすると、なかなか思い出せなかったりします。でもそれはあなたの記憶力が悪いせいじゃありません。壁紙ってそういうものだからです。たいていの壁紙は目立たないように、人が特別に意識しないよう、記憶に残らないように作られているからです。

じゃあ壁紙なんてどうでもいいのかと言えば、もちろんそんなことはありません。日常意識していないながらも、壁紙はそこで過ごす人の気持ちにじわじわと影響を及ぼすからです。たとえばあなたが奮発して立派な家具を購入したとしましょう。でも部屋に置いてみると何だか違和感がある。そこだけ何だか取って付けたみたいに感じる。ああ、そうか、壁紙が煤けていて家具とマッチしないんだな。そういえば15年、一度も壁紙を貼り替えたことなかったな。人が壁紙を意識するのはそんなときです。

じゃあ壁紙を貼り替えることにしましょう。ホームセンターへ行って壁紙を買ってきて自分で貼り替えるという手もありますが、慣れていないとシワになったりズレたり面倒そうです。費用はかかりますが、やはり専門の内装業者に頼むことにしましょう。電話するとすぐに、大量の壁紙のサンプルが載ったぶ厚いカタログを持って業者がやってきます。そのサンプルを前にして、あなたはきっと途方に暮れます。

カタログには小さくて四角い壁紙のサンプルが大量に貼られています。ひとつ、ひとつ、確かに色、柄、材質が違います。模様の書かれたものなど、様々な壁紙があります。細かく見ていくと確かにひとつひとつ全然違います。よくもこんなに色々な壁紙があるもんだなと思います。中には普通の家にこれはちょっとと思うような派手なのもありますが、それ以外は壁に貼ってしまえばどれもこれもあまり変わらないようにも思えます。だいたい小さな壁紙の切れ端を見ても、実際にそれが部屋の壁に貼られたときどんな雰囲気になるのか、いまひとつイメージが湧きません。

その様子を察した業者があなたに尋ねます。どんな感じのものをお望みですか?ええっと、そうですね、日当たりのあまり良くない部屋なので明るいのがいいんですが...冬も暖かい雰囲気になるような。では、これとか、あるいはこれなんかはいかがでしょう?業者はたちどころに候補を数点に絞り込みます。

その後見積をもらって価格交渉して、実際に貼り替え工事が終わった部屋を見てあなたはこう思います。ああ、気のせいか少し明るい感じになって家具も違和感がない。ちょっとだけこの部屋に入るのが楽しみになったかな。

ブライアン・イーノ(Brian Eno)が作るアンビエント音楽というのは、いわば壁紙のような人に意識をさせない音楽です。室内の雰囲気といのは壁紙だけが作っているわけじゃなくて、天井や床や窓もあります。そこでどんな人が何をするのか、どんな家具やインテリアがあるのか、光がどのような感じで入ってくるのか、気温や湿度や窓から見える風景によっても違います。そこにもうひとつ、壁紙なんかと同レベルの目立たない音楽を加えることで、その空間をほんの少しだけ良いものにするというのがイーノのアイディアです。

意識されないように作られた音楽ですから、あれっ、そういえば何かかかっていたけどどんな音楽だっけ?というのが本来の正しい聴き方です。ということは、普通の人は普段あまり壁紙のことなんか話題にしないように、イーノとかアンビエント音楽なんて誰も話題にしないのがイーノが理想とする世界ということになります。だけどこのようにアンビエント音楽についてくだくだ書く人間が後を断たないということは、まだまだ道のりは遠いという証しでもあります。

それでもイーノ最初の公式アンビエント作品「Discreet Music」から37年、アンビエント音楽の「利用者」もそれなりに増えてきました。最新作「Lux (ラックス)」は元々イタリアのヴェナリア王宮(Reggia di Venaria)にある回廊ガレリア·ディ·ダイアナ(Galleria di Diana)のために作った音楽がベースになっているそうです。行ったことないのでよくわかりませんが、王宮と名がつくからにはおそらく国宝級の歴史遺産に違いありません。そういうところからイーノに「音楽を作ってくれ」って依頼が来るようになったんですねえ。きっと担当者は昔、ロキシー・ミュージックを聴いてたような人なんだと思います。

この作品の誕生に当たっては二つの話があるんだよ。まずそのひとつ、トリノの王宮内に二つの場所をつなぐある建物があるんだけど、そこで流す音楽を作る仕事を引き受けたんだ。その建物というのはものすごく長いギャラリーみたいなところで長さが100メートル、高さは15メートルもある1740年代にユヴァッラ(Filippo Juvarra)が設計したものなんだ。年間約100万人の観光客がその建物の中を通るんだけど、足早に通り過ぎてしまう人々をもうちょっとゆっくり歩くようにさせたいというのが依頼の内容だった。まるでレースでもやってるみたいにあっちからこっちへみんな通り過ぎてしまうので、せっかくの美しい場所に気付いてもらえないって依頼者は感じてたんだ。「みんながゆっくり歩くような曲を作っていただけませんか」って言われたんだよ。それでぼくは、これならちゃんと機能するだろうと思う曲を作り、それを持って飛行機でトリノへ飛んだんだ。スピーカーなどすべてぼくが言った通りにセットされていざその曲を流してみると、20秒もしないうちにこれじゃまるでダメだってわかった。

その場所にまるでマッチしてなかったんだ。その建物とはうらはらに現代的過ぎたんだよ。驚くほど素晴しいバロック様式で細かな装飾がいたるところに施されているんだけど、主役になってるのは建物じゃなく明るい光なんだ。両側に巨大な窓があって、足を踏み入れるとまず目に入ってくるのは光、そして日中刻々と変化する光の表情だったんだ。一方ぼくが自分のスタジオで作ってきた曲は、いや決してデキは悪くなかったけどさ、だけどあの場所で聴くとすごく室内っぽくて、反射光っぽくて、内省的で暗いってみんな感じたと思う。ぼくはポータブルなスタジオ機材も持って行ってたから、よし、2日ほどここに留まってどんなやり方がうまくいくか試してみようって決めたんだ。そうして帰る日までにぼくは、これならうまく機能しそうだというサウンド・テイストと歩調みたいなものを把握することができた。それからロンドンへ帰って作品を仕上げたというわけさ。で、二つの話をまとめると、一、ぼくは特定の場所用の曲を作るために招待された。二、そこで大失敗をした。

その王宮で使った音楽が今回のアルバムのベースになっている。ぼくはスタジオで寝転がれるように寝心地のいいベッドを持ち込み、その枕元両脇にスピーカーをセットして自分でこの音楽の中に浸れる環境を作ったんだよ(ヘッドフォンが嫌いなんでね)。どうしてそんなことをしたのかというと、王宮用に作った音楽を調整するためさ。そうやって作業をしてるうちに「すごい、この音楽、大いに気に言ったぞ。それだけじゃなく、今まで自分が作ったどんな音楽とも違って聴こえる」って思うようになったんだ。まあぼくの仕事に興味のない連中は「ああ、チーン、ゴンって調子のいつもと変わらないブライアン・イーノの音楽だよな」って言うに違いないけどさ、ぼくとっては今までと全然違う作品なんだ。

王宮の仕事のオファーを受けたとき、最初はその場所で24時間流しっぱなしにする音楽にしようと思っていた。だからジェネラティヴな作品、永遠に変化し続ける自己生成的なものを作ろうとしていた。だけどよく話を聞いてみると、彼らが求めていることを実現するには1時間再生したら次の1時間は止める、その方がいいと分かったんだ。実際そんな風に彼らに提案したんだよ。なぜならあのギャラリーを訪れる人の中にはミスター・イーノによる解釈が加わっていない、そのままの形であの場所を味わいたいという人もいるからね。それでぼくはエピソード的な音楽というアイディアを模索し始めた。最初から最後まで通しで聴かなくてもいい音楽、どこから聴き始めても、どこで聴き終えてもいい音楽だよ。数学の順列の考え方を取り入れて仕事を始めたんだ。労せずして多くのものが手に入るやり方だよ。集合の中から元を取り出して、ある短い長さの列を作る。時間と法則が許す限りいくらでも違ったものが作り出せるんだ。

ピアノの白鍵盤は7音階で構成されてるんだけど、(12セクションから成る)この作品の各セクションはその内の5音階を使って作られているんだ。計算してみると分かるけど、7音階から取り出せる5音階の組合せは21通りある。作品は12セクションだけど、いくつかは同じ音階を使っているものがあるので実際に使っている音階は9通りだ。きわめて公式的なんだ。シンプルな方法で色々を生成できる。ぼくの「内なるミニマリスト」がそうさせるんだよ。

The 77 Million Faces of Brian Eno

イーノ自身は今までと全然違う作品なんだって言ってますけど、普通の人は「この壁紙は従来の製品とはまったく違う画期的な製品なんですよ」って言われてもよくわかんないですよね。

でも今度のは違うんだよ、マジ。壁紙マニアにしか分からないかもしれないけど。

2012/12/22

1977年のクリスマスとセックス・ピストルズ

a cake with Sex Pistols written on it, the size of a car bonnet

最近、アメリカなんかでは「メリー・クリスマス」って言っちゃいけないそうです。世の中にはキリスト教だけじゃなくユダヤ教やらイスラム教やら創価学会やら色んな人がいるので「ハッピー・ホリデイズ」というのが政治的に中立で正しいということになっているそうで、街の看板やらテレビ CM などはみんな「ハッピー・ホリデイズ」になっているそうです。

ずいぶん昔に「宗教とまるで関係のない楽しいクリスマス」を確立してしまったわたしたち日本人からすると「いいじゃない、そんなに目くじら立てなくてもみんなで楽しめれば」って思うのですが、そうもいかないようです。この調子でいくと、2050年頃には「メリー・クリスマス」って言ってるのは日本人だけになっているかもしれません。いや、でもね、色んな宗教とか神様を差別せずに寛容に受け入れられる日本の文化というのは誇るべきものだと思うよ。

なんで日本人は色んな宗教に寛容なんだろう?それはですね、わたしたち日本人が今でも原始的な祖霊信仰の世界に生きてるからなんだと思います。日本人の大半は仏教徒だなんてよく言われていますが、仏教のことを調べてみると現在日本で仏教と呼ばれているものは元のゴータマ・ブッダの仏教とはまったくの別物であることがわかります。日本の仏教は土着の祖霊信仰と合体して日本独自のものに変貌を遂げています。

嘘だと思ったらそのへんのじいちゃん、ばあちゃんに「ホトケ様」と言って何を思い浮かべるか、尋ねてみるといいよ。ほとんどは家の仏壇とかに祀ってる亡くなった家族やご先祖さまのことを思うはずだから。日本人にとってのホトケ様というのは、ゴータマ・ブッダよりもまず自分に近い祖霊のことなんです。この祖霊信仰、現在も色濃く残っているがゆえに「色濃く残っている」ということがあまり意識されていません。

だってそうでしょう、普段「宗教?神様とか仏様とか、俺はそんなの関係ないなあ。考えてみたこともない」って言ってる人が「そういえば、親父の墓参り、もう何年も行ってないなあ」なんて言っても、誰も変に思わないでしょう?むしろそういう人が今の日本人の主流です。この墓参りに行けなくて何となく後ろめたく、申し訳なく感じる気持ち、これを祖霊崇拝と呼ぶのですよ。

だからホトケ様といえばまず死んだ親父とかばあちゃんのこと。もちろん自分ちだけじゃなくよその家にもホトケ様がいて、ホトケ様の世界にも序列とかがあって、そん中で一番エラいのがゴータマ・ブッダ=お釈迦様ってのが日本のごく普通の仏教です。

だからわたしたちにとってキリストというのは西洋のエラいホトケさんで、アッラーといえば「ほう、イランとかイラクではそういう名前のエラいホトケさんがいるんかい」という調子で、だからすべての神様を簡単に受け入れることができるんです。「メリー・クリスマス」だって「たまには西洋のホトケさんのお祝いをしたって別にバチは当たらんだろ」でオッケーなんです。

しかしながら世界には唯一のホトケ様しか信じられないという人が結構な数を占めているため、そういう人たちに対してわたしたち日本人はこれからも「まあまあ、メリークリスマスくらいで、そんなに目くじら立てなくても」と(なだ)めていかなければならない使命を負っているのです。

イギリス人のジョニー・ロットンもわたしたちと同じように「唯一絶対のホトケ様しか認められないなんてナンセンスだ」という考えを持っているようです。彼は「Religion」という曲でキリスト教世界を批判し、「Four Enclosed Walls」という曲をイスラエルで演奏して「アッラー」というフレーズをユダヤ人の聴衆に合唱させるなど数々の偉業を成し遂げてきました。彼はクリスマスをどう思ってるんでしょう?彼の考えは明快です。子どもたちからケーキとサンタを取り上げるな、取り除くべきは宗教の方だ、です。

子どもの頃、クリスマスがどんなに楽しみだったかおぼえてるか?子どもたちはクリスマスが大好きなんだ。だから絶対にクリスマスを厄介なものにしちゃいけない。クリスマスから宗教的な意味を取っぱらえばいいんだ。

John Lydon predicts anarchy in the UK for 2011: "Riots are a good sign"

1977年のクリスマス、イギリス、ウエスト・ヨークシャー州ハダーズフィールドの消防士たちは待遇の改善を求め、約3ヶ月にもおよぶ長期ストライキの真っ最中でした。当時の詳しい状況はよく知らないのですが、そこまでやるからにはよほどのひどい労働環境だったはずです。一方、消防士という仕事の性質上、ストライキに対する社会的な圧力もハンパなものではなかったはずです。

ストライキの間、消防士たちには給料が支払われずその家族は窮乏状態のままクリスマスを迎えることになったのですが、そこに手を差し伸べたのは我らがセックス・ピストルズでした。昼間のナイトクラブを借り切ってクリスマス・パーティーを開催、送迎バスをチャーターして消防士の子どもたちを招待したのです。

当時そのパーティーに招待されたクレイグとリンジーという名の二人がその思い出を語った2004年のインタビューが BBC のサイトに載っていたのでご紹介します。

クレイグ: お金は全部ピストルズが出してくれたんだ。会場へ行くとそこはお菓子やレコードがいっぱいあって、どれでも好きな物がもらえたんだ。10歳くらいの子どもたちが Never Mind The Bollocks (知ったことか、くそったれ!)って書かれたT シャツを着て走り回ってたよ。子どもがいっぱいで大騒ぎだった。

リンジー: 何もかも、本当にびっくりだったわ。テーブルにはザクロやオレンジなんかの果物でいっぱい。彼らはわたしたちのために、本当に夢みたいなものを用意してくれたの。

その年のクリスマスは、わたしたち消防士の子どもがたくさんのプレゼントをもらえるなんて、本当ならあり得ないことだったのよ。すごく大変な時期だったの。クリスマスには家族で集まってプレゼントをもらうのが楽しみだからみんないい子にしてたんだけど、両親は労働争議の真っ最中で、給料も支払われていなかったから...。

クレイグ: ...あれで親父の肩の荷が下りたんだと思うな。「そうだな、(ピストルズのパーティに)行かせた方が、子どもたちは楽しく過ごせるのかもしれないな」って考えたんだと思う。もしあのクリスマスを家で迎えていたらって考えると、やっぱりあそこへ行って良かったんだと思う。

リンジー: それまで見たこともないような光景だったわ!

クレイグ: ピストルズの4人が出てきて「Holidays In The Sun」を演奏したんだ。シド・ヴィシャスが子どもたちに向かって唾を吐いたもんだから、ジョニーは「止せよ、いつものファンとは違うんだぜ。みんな小さな子どもじゃないか」なんて言ってた。ジョニー・ロットンはこういうのが大好きみたいだった。すっごく楽しそうで、ケーキに頭から突っ込んだりしてた。指についたクリームをなめながらみんなにケーキを勧めてたんだけど、終いにはみんなに髪の毛をクリームまみれにされていたよ。

家に帰ったときはバッジやステッカー、T シャツやら LP レコードやら、おみやげでいっぱいだったことを憶えてるよ。でもしばらくするとそれは物置行きになって、やがてそのほとんどを母が捨ててしまったんだ。もし今も取ってあったら、ものすごい値打ち物だったのにな。そういえば同じように消防士の親を持つ小さな女の子がいたんだけど、ジョニー・ロットンは自分たちのゴールド・ディスクを皿代わりにしてケーキを乗っけてそのままその子にあげちゃったんだ。その後その子がどこに行ったのか、あのゴールド・ディスクがどうなったのか、もう誰にもわからないんだよ。

当時は親父がどんな問題に直面していたのか、まるで知らなかった。もちろん今ならわかるよ。俺たちもストライキをするからさ。その間、給料は支払われず、請求書だけが回ってくるんだ。今の俺たちのストライキはせいぜい2日くらいですぐに元の状態に戻るけど、親父たちがやっていたのは12週間から13週間にも及ぶ長期のストライキだった。13週間も収入ゼロだったんだ。ものすごくつらい戦いだったと思うよ。もし自分がそんな立場に置かれたらって考えるとぞっとするよ。

リンジー: あれでみんな気が晴れたの。両親に文句を言いたい気持なんか吹っ飛んだわ。最高のクリスマスを過ごせたんだもの。本当に信じられないほどの。

Happy Punk-mas in Huddersfield!

このパーティの模様はピストルズのドキュメンタリー映画「The Filth And The Fury (邦題: No Future)」にもほんの少しだけ映ってます。奇しくもこの日は(1970年代の)セックス・ピストルズがイギリスで演奏をした最後の日となりました。その聴衆がこの消防士の子どもたちだったのです。

みなさんも良いクリスマスが迎えられますように。メリー・クリスマス!

2012/12/16

若くてエネルギー溢れる俺ときみが手を組んで、一緒に選ばれようじゃないか (Elected - アリス・クーパー)

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Alice Cooper, a photo by Scott Butner on Flickr.

アリス・クーパーが何十年も人気を保ち、第一線で活躍している理由というのはですねえ、いつまでも「きみと俺」という悩める青少年に語りかける姿勢を保ち続けているからだと思います。

そんで人というのは年をとっておじさん、おばさんになっても案外まだ「悩める青少年」なんです。まじめに悩めば悩むほど深刻になって、出口が見えなくなってくるんですけど、そんなときでもアリスはニヤりと笑って語りかけてくれるんです。「俺はきみから生まれたんだぜ」って。

ジョン・ライドンも言ってる通り、アリス・クーパーは世界をちょっとだけマシな場所にしてくれた偉人のひとりです。世の中を少しでもマシにしたいと思ってるなら、みんなもうちょっとアリス・クーパーを聴くべきだと思うよ。

俺は極上品、きみが選ぶのは俺しかいない
俺を当選させてくれ
俺は金のロールス・ロイスに乗った生粋のアメリカ男
俺を当選させてくれ
子どもたちが望んでいるのは偽者じゃない、真の救世主
だから俺を選んでくれ
俺の作るルールでみんなを揺さぶってやろう
俺を当選させてくれ

俺は決して嘘はつかない
常に冷静な男だ
俺を当選させてくれ
俺は票を獲得しなくちゃならない
学校をどうするかは、前に言ったよな
俺を当選させてくれ

わたしが当選したあかつきには
新党(ニュー・パーティ)の結成をお約束しましょう
その名もどんちゃん騒ぎ(ワイルド・パーティ)です!
わたしたちは今、たくさんの問題を抱えています
ここ、テネシーはもちろんのこと
ナッシュヴィルもメンフィスも
アメリカ中が問題だらけです
ですが
わたしの知ったことじゃありません

俺たちはこの選挙に勝ち
この国を手中に収める
若くてエネルギー溢れる俺ときみが手を組んで
一緒に選ばれようじゃないか

2012/12/08

2013年4月の PiL 来日決定! ジョニーおじさんがやって来る!!

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Public Image Ltd. at the Royale, Boston, 10-15-2012, a photo by xrayspx on Flickr.

何の前触れもなく突然の発表、驚きのニュースです。来年2013年4月、PiL の来日単独コンサートが決定しました! 名古屋、大阪、東京の3ヶ所、その内東京は2回で計4回の公演です。いやあ、このところいつもツアー日程はギリギリまで発表されなかったので、こんなに早く発表されるなんて。心の準備がまだできてないんですけど。

でもこうやって早く日程が決まるってことは、資金的な余裕もできてプロモーターへの信用も付いたってことですから、大変喜ばしいことです。

公式サイトの発表によると、日本に来る前に北京と上海でもコンサートをやるそうです。ジョン・ライドンがいよいよ中国へ進出します。すごいなあ、中国だとどんなコンサートになるのかなあ。きっと PiL なんか聴いたこともないような人がたくさん来てジョニーのパフォーマンスを観て、そこで人生変わっちゃうような人が続出するんだろうなあ。

日本でのコンサートは去年もやってますけど、メインはフェス(サマソニ)への出演だったし、新木場 Studio Coast での単独公演は直前になって決まったものだったから、知らなかった、スケジュールの都合がつかなかったとかで行けなかった人もたくさんいるはず。今度はスケジュール調整する時間もたっぷりあるから大丈夫。お金、体調、スケジュール、しっかり準備して臨みましょう。

「えーっ、ジョニー・ロットンって昔の人で、今はもうデブのおっさんでしょう?そんなの観ても...。」と思ってる人がまだ多いのかもしれません。確かにデブです。もう56歳です。だけど今が全盛期なんです。信じられないくらいカッコ良くてキュートなデブのおっさんです。嘘だと思ったら去年 PiL を観た人たちの感想を読んでみてください。

まだ信じられない?そりゃ自分の目で確かめるしかないね。

今日集まってるのは恥ずかしがり屋ばかりなのか?今日はドキュメンタリーの撮影をしてるんだぜ。みんな気弱なヘタレなんかじゃないってことを見せてやれよ!

2012/12/01

そして何か答が見つかったら、ぼくに教えてほしい (マニフェスト - ロキシー・ミュージック)

Roxy Music - Manifesto

ブライアン・フェリー(Bryan Ferry)のニューアルバムは過去のロキシー・ミュージック(Roxy Music)やソロ作品からセレクトしたセルフカバー集です。ただし1920年代風のジャズ・アレンジ、しかもあろうことかヴォーカル無しのインスト・アルバムでその名も「The Jazz Age」です。

普段ならここでニューアルバムをネタに与太話を書くところなんですが、昨今の状況を考えるとやはり今あの曲について書いておく必要があるという結論に逹し、敢てうんと古い曲をご紹介することにします。

会って話したこともないのに唐突に断言しますが、ブライアン・フェリー(Bryan Ferry)というのはものすごく自分勝手な人です。おそらく本人に悪気とか自覚のまったくない、天然タイプだと思います。

ブライアン・フェリーがロキシー・ミュージックのシンガーとしてデビューしたのは1972年です。ところがその翌年、1973年にはもうソロ・アルバムをリリースしています。しかもロキシーのメンバーがほとんどそのままレコーディングに参加しているにも関わらず、ロキシー・ミュージックではなくブライアン・フェリー名義なんです。普通「何でや?」って思いますよね。たぶん彼にしてみると「ロキシーとは違うことやってるし、そんなに変かな?あれ?前に話したよね?」という感じなんだと思います。1970年代はその後もロキシーのアルバムと並行して毎年のようにソロ・アルバムを発表し続けました。

ただそんな彼でも気付くほど他のメンバーとの関係がこじれてきたのか、1975年の「Siren」を最後にロキシー・ミュージックとしての活動を一旦停止、ブライアンはソロ活動に専念し始めます。大昔のインタビューでブライアンが「ツアーバスで他のメンバーに気を遣って、ほら、あそこにカンガルーがいるよ!とか言うのに疲れちゃったんだ。」なんて言ってたのを記憶しています。気を遣うところが違うだろうと突っ込みを入れたくなりますが、そういう人なので仕方ありません。

ただしその後もソロのレコーディングやツアーにはロキシーのフィル・マンザネラ(Phil Manzanera)やポール・トンプソン(Paul Thompson)がしっかり参加していて何だかわけの分からない人たちです。

そしてそのわけの分からないまま1979年に突然ロキシー・ミュージックの復活作としてリリースされたのがアルバム「マニフェスト (Manifesto)」です。今回ご紹介するのはそのオープニングを飾るアルバムタイトル曲です。

マニフェストというのは声明、宣言を意味します。ロキシー・ミュージックとしてのマニフェストです。ただしブライアン・フェリーがメンバーとよく話し合った結果この曲が生まれた、なんてことはあり得ません。間違いなくブライアン自身のマニフェストです。

マニフェストというのは他人に対して宣言するわけですから、言ったこととやってることがまるで違うというのでは信用を失います。もちろん人間、生きていれば諸般の事情というものがあり、臨機応変に変えていかなければならないことも多々あります。ですから、マニフェスト作りというのは、何があろうと決して変わらないもの、何があろうと決して変えてはいけないものを厳しく自分に問い、見い出す作業となります。

この曲の発表当時、マニフェストというのは一般の日本人が知っている言葉ではありませんでした。私はこの曲でマニフェストという言葉を知りました。そしてマニフェストというのは、こうあるべきものだと確信しました。

ブライアン・フェリーは今もこのマニフェストそのままに生き、歌い続けています。ぜひみなさんにも見習っていただきたいと思います。

ぼくは支持する
不意に襲いかかり
きみに欠けているすべてをもたらす
人生の転機を

ぼくは支持する
数字の順に色を塗るだけの生活に
突如吹き込む一陣の風を
詰み重ねが幸運につながる
さあそれはどうだろう

ぼくは友情と穏かな航海の(とりこ)
寄港地では熱狂で迎えられ
ただ愛に溢れて
激しく握手を交す

あるいは
明日を求める者にとっては
まったく無意味でもかまわない
どの町にも必ずいるだろう
束縛されるくらいなら
死を選ぶようなイカレた男が

ぼくは支持する
きみを死の淵に引きずり込むまで
鉄槌(てっつい)を振るう男を
彼のドリルは
百万マイルの彼方までも震わせる

ぼくは支持する
革命の女神の到来を
彼女がどこにいるのか知らない
だけどその場所はここだと言い切る者たちを
ぼくは知ってる

しばしばぼくは
不完全さに苦しんできた
大理石に入ったひびと
涙でいっぱいの
弱々しく疲れ果てた顔を
ずっと調べていた

ぼくは動機なく戦うために
どこでもない場所で生まれた男
根はその性質に逆らい
無理矢理ピンと張っている

ぼくを信じたほうがいい
出会うものに疑問を投げかけ
そして何か答が見つかったら
ぼくに教えてほしい