Mahatma Gandhi |
ここ10年くらい、ジョン・ライドン(John Lydon)はインタビューでよくマハトマ・ガンジーの名前やガンジーの受動的抵抗(Passive Resistance)という言葉を口にしています。今年のエジプト民主化運動のときにもこんなメッセージを寄せています。ガンジーといえば歴史の教科書に必ず出てくる、イギリスによる植民地支配からの独立を果たした『インド独立の父』です。そのガンジーになぜジョンが入れ込むのか、ピンと来ない人が多いじゃないでしょうか。
目的のためには手段を選ばないだって?馬鹿げてる。目的とそれを実現する手段は表裏一体だ。この二つは分離できない。もしあんたが間違った手段を選ぶなら、あんたの目的そのものが間違ってるということだ。あんたが何か間違いを正そうとするとき暴力を選択を選択すれば、あんた自身が哀れな暴力的存在に成り下がる。
上記は先月 BBC のインタビューでジョン・ライドンが語った言葉です。なあんて言うとほとんどの人が信じてしまいそうですが、実は違います。これ実はガンジーの言葉(を私がジョン・ライドン語に翻訳したもの)です。どう?ガンジー、かっこいいでしょう。
ガンジーはお坊さんみたいな恰好をした写真と共によく紹介されているため、何となくダライ・ラマ14世あたりとイメージがダブってしまいますが、ガンジーは宗教指導者ではありません。彼個人はヒンドゥー教の信者ですが、インドではヒンドゥー教だけでなくイスラム教も大きな勢力を持っており、そのほかにも様々な宗教があって、そもそも単一の宗教の元に人々をまとめるなんてできない地域なんです。それから彼は政治家でもなければ、政治団体の主催者でもありませんでした。何の肩書きもないただの「ガンジー」という人です。
ガンジーは単なる平和主義者でもありません。当時のインドにも武力に頼らず平和的に話し合いで独立を果たしていこうという穏健派の人たちがたくさんいたのですが、ガンジーは「イギリス人の作った法律に従い、イギリス人へ陳情することは自らを貶める行為。自分たちで自治しているのであれば、仮に無秩序状態になっても耐えるに値するが、従属下の秩序は貧困を意味する」として穏健派にも組しませんでした。つまり「断じて抵抗する!」という考えです。Anger is an energyです。
自分たちが抵抗するそのやり方(手段)は自分たちが作ろうとする国(目的)と表裏一体であり、抵抗の行為そのものが新たな国の姿を形作るという考えの下、ガンジーが呼びかけたのが不服従運動です。イギリス人とイギリス人に服従するインド人たちが決めた法律には従わない。イギリス人とイギリス人に服従するインド人たちの役所にも陳情しないし、その支配下にある裁判所でも争わない、従わないという呼びかけです。中でも有名なのが塩の行進です。当時のインドでは塩の製造、販売が専売制により植民地政府に管理されていたのですが、この法律に従うことを止め、伝統的な製法で自由に塩を作り、塩を売り買いしようというものです。不条理な法律を支えているのはインド人であり、インド人が法律に従うことを止めれば、その法律によって成り立っている植民地支配そのものが崩壊するという理屈です。そしてそれは現実になりました。
ジョン・ライドンは闘っています。何に抵抗し、何と闘っているのか。それは今、日本であなたが理不尽だとか屈辱的だと感じているものとあまり変わらないものです。腹立たしい?じゃあ抵抗しかないね。自分で闘うしかないね。あんたはあんたの闘いを闘う。俺は俺の闘いを闘う。JohnLydon.com に書かれている「army of one(ひとりだけの軍隊)...」ってそうゆう意味なんだよ。
大地の目
森の耳
魚は頭を下げて水に潜む
俺は虎に跨がり
二度と降りることはない
苦難の十字架と梯子は天まで続く俺は戦士
断固として立ち向かう蝋燭に火を灯し
窓を照らす
今宵見える
ただひとつの光
無力な者には服従しかなく
死者が持てる富もない
ある者は目覚めるが
寝返りを打つだけの者もいる犬の遠吠えを聞き
木々の揺らぎ見つめる
昼夜を分かたず
明かりを灯し続ける
度重なる侵略にも
敵に哀れみを乞うことなどない
ここは俺の国
けっして屈服しない俺は戦士
けっして屈服しない
断固として立ち向かう
俺は戦士